雑踏の中で箕輪を見かけた。黒いスーツがよく馴染んでいた。俺が知っている箕輪は作業着姿だ。スーツの箕輪がこちらを向いた。その視線を逸らされたとき、何故かは分からないが“見逃された”のだと感じた。
箕輪が工場を辞めたのは5年前だったと思う。
これだけは自信を持って言える。自信を持つことでも無いのかもしれないが。俺はあいつとは接点なんてほとんどない。ただ、喫煙所で顔を合わせるだけの、気分が乗ればお互いの銘柄を1本交換しあうくらいの、それだけのつながりだった。工場内ですれ違うことは多々あれど、仲良く肩を並べて作業するような親密さもなければ、連携することになったとして舌打ちするほどの険悪さも無かった。
そうだ、俺とあいつの間には何もなかった。あいつの表情が、しゃべり方が、態度が、兎に角すべてが気に食わないと苛立っていた同僚とだって、別段俺は親しくしていなかった。俺はどこまでも傍観者だった。傍観もいじめの一つだという輩がいるのは知っている。俺も一部分では賛成だ。だが、いじめを受ける対象が箕輪であった場合は、それは当てはまらないと思っている。何故ならあいつは、箕輪は同僚の嫌がらせを歯牙にもかけていなかったからだ。ただただ、ニヤニヤと笑っていた。自分を不快にさせようと躍起になっている輩をあざ笑うように。そして箕輪に食ってかかっていたいた同僚が、いつしか箕輪を避けるようになっていた。箕輪から距離をとるようになった前後、同僚の動きがぎこちなく腹や足を庇うような仕草を見せるようになっていたが、果たして関連性があったのかは俺にはわからない。
箕輪について何故か今でも、ハッキリと思い出せる事がある。いつものように喫煙所とは名ばかりの、廃材や鉄くずで構成されたベンチ(のようなもの)に空き缶を置いただけの一角で箕輪と肩を並べて煙を吐いていた時だ。陽炎が立ち上っていたのを覚えている。夏だった。俺も箕輪も作業着の上を脱いで一時の解放感を味わっていた。
「あー、ビールの1本も呷りたいねぇ」
「本当になぁ。ここにクーラーボックスでも持ってくるか」
「ヒヒッ、飲酒作業かよ。いらんところまで溶接しそうだねぇ」
「やりかねねぇや」
日陰とはいえじりじりと蒸すような暑さに、俺も箕輪もいい具合に茹だっていたような気がする。だからだろう、箕輪が妙な事を口走ったのは。
「夏は……困るねぇ。暑いし、物が腐りやすい」
「そうだな。昨日の味噌汁がもう酸っぱくなってたりするもんな」
酸っぱいってお前飲んだのかよと箕輪にからかわれ、俺はいけると思ったんだとか見た目は大丈夫そうだったとかそんな言葉を返したと思う。
「臭いでわかるだろうが」
「臭いねぇ。俺はそこまで繊細に出来てねぇな。実際、腹もなんともなかったしよ。まあ、流石に肉の腐ったのはわかるけどな」
「へぇ、腐らせたことあるのか」
「ああ、パックで買ってきたのをうっかり出しっぱなしにしてて、気づいたときには手遅れよ」
あの時のことを思い出すと渋い顔になる。肉もそれなりのものだったのだ。それを何故出しっぱなしにしていたかと問われれば、すべて酒が悪いと答えるしかない。
「……肉の腐ったのってのは、どんな臭いだ?」
「臭いって、生臭いってか鼻にくるというか……兎に角腐った臭いとしか言いようがないな」
「そりゃあ、誰が嗅いでもわかるもんかね」
「まあ、わかるんじゃないか?実際に嗅げば、そりゃ嗅いだことがなくても、アンタでもピンとくるだろうよ」
「……そうかい」
随分と絡んでくる。そう思った。
ポメラに残ってるのはここまでで、ここから先どう展開するつもりだったのか全く思い出せない。大まかには多分こうだろうなーという全体の流れはぼんやり覚えてるんですが、この箕輪と同僚との会話をどう運ぶつもりだったのやら。
オチ候補としては
1-a.このあと過去回想終了後に現在の密葬課になった箕輪と語り手が接触。箕輪の闇にかすってしまうものの命だけは助かる。
1-b.aとほとんど一緒だけど最後語り手が密葬される。
2.過去回想のみで終了。現在の箕輪と語り手の接触はないまま終わる。
3.過去回想後、実は語り手がこれから0円ギャンブルに望むところだったことがわかり、梶達と同じ手順を踏んで警視庁へ向かう車に乗り込むところで終了。
のどれかだと思う。